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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 24 Dec 2001 17:37:45
【小西邸における日仏現代作家展】
大阪北浜の商家、小西邸(重要文化財)で日仏の現代美術作家4人の作品を見た。松谷武判のボンド等を用いたモノクロームの造形、ダニエル・ポントローの陶彫と版画、田口梅屋の墨象、堀尾貞治のインスタレーションという構成。障子越しの薄明かりと畳、懐かしい土間や黒光りするほど磨きこまれた板戸など純日本的形式美が統一された空間で、力のある造形が火花を散らしていた。大谷美術館で見たストイックな松谷作品も、今回はこってりと官能的。久々に胸にずしんと、快い刺激を感じた。又、特筆すべきはポントローの「ざっくりした陶の作品」の新鮮さ。床の間の壁と、横長に掛けた版画との相性のよさ。ケレンみが全く無く、ぽんと自分を投げ出していて、素材が何かも忘れさせる。小西邸の南側の堺筋に面したビル2階にある、ギャラリーほそかわでも其々の小品が、同時に展示された。そちらで見たポントローの小品も、ミニマムな展示も相まって心に残る物だった。例えば白地の陶板にコバルトで、「1」を描いただけ。そのあまりの素っ気無さは心憎いほどで、今も心奪われたままだ。小西邸における最初で最後の展示だったとの事。作品に相応しい場所を考えるヒントをもらった。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 21 Nov 2001 23:15:10
【展覧会の前後】
展覧会が終わると、同じ人間とは思えぬ程、神経がゆるみます。会期中は自分の中の、あるかなきかの社交的な部分をかき集めて、露悪的一歩手前まで気持ちを高めるので、沢山の方とお話しても不思議と疲れません。画廊の壁を埋めた自分の作品と、冷静に対峙する事も出来るようにもなりました。自信作がひっそり誰の眼にも止まらず、逆に出来損ないが人気を得るという結果もままあり、それも発表する機会を持てばこその面白さと言えます。一般受けは期待できないのは分っています。だからこそほんの僅かでも、確かな視線で見て下さる方がいるのは、とても嬉しい。作者の説明なんて聞かなくても結構と突き放す様に、真直ぐ作品に向う「見知らぬ魂」を感じる時があります。その視線を浴びて、ヒリヒリする「本当の自分」がいます。それは、時間を超える一瞬でもあります。一寸マゾ的でもあります。その為に作品を作っているのではありませんが、その一瞬の為に展覧会をしています。普段は、「説明する気はありません」と悪ぶって傲慢な私なのですが。しばらくは自堕落に休眠致します。今回、甲子園まで足を運んで下さった沢山の方に、心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。
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片山優子<courage@hkg.odn.ne.jp> 15 Nov 2001 17:15:07
芦屋で開催中の展覧会のお知らせです。コシノヒロコさんの新しいアトリエ兼ギャラリーでの第一回目の「鉄騎の楽宴。増殖する触覚群雄」というタイトルです。広告写真家高橋榮氏の、昔の農機具や鹿の骨などの廃材を使ったアサンブラージュによる彫刻展です。アトリエ棟、プール、庭園に26点ほど展示されています。ゲストルームでは{有料500円}コーヒー、紅茶、ワインを飲みながらアートを鑑賞できます。会場名はSEMPER、芦屋市奥池町35−8、0797−25−6556、11時から17時までで火曜日が休館日です。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 8 Nov 2001 16:07:55
【銅版画という快楽】
この夏から、西宮市今津(阪神電鉄沿線)にある銅版画工房に通っている。キャリアのある銅版画家の友人が、工房を開いたのが契機となった。工房というものは、何かを作り出す「気」に満ちていて、とても良いものだ。画家のアトリエなら、紙と絵具で済むとしても、銅版画家の場合は、まず大きくて重いローラーの付いているプレス機がドーンと場所を占める事になる。その他、ガソリン、アルコール、塩化第二鉄(腐食液)、松脂、金属磨き等、銅版画ならではの独特の材料と匂いにまず驚き、少し慣れると、銅版の腐食(凹)にインクを詰め込み、それをローラーの圧力で紙に写し取らせるというプロセスの虜になってしまった。版に食い込んだ(凸)部分がインクを吸い取るという、木版とは逆の仕組みだ。今まで銅版画を見る機会があっても、プロセスを完全に理解していなかった上に、同じ版の複数作品が存在することに対する違和感があって踏み込めなかった世界。しかし実際に、あまりにも時間と手間を要求するこの方法を少し体験して見ると、まだ慣れない私としては、描いた方が早く、一点物よりも大変というのが実感。にもかかわらず、腐食による線が他の画材による線よりずっと魅力的な場合がある事を発見してしまったのだ。プロセスの複雑さは、まるで時代に逆行する様でそれも面白い。誰でも新しい手法を始めると、それが従来の制作方法に必ず影響すると思う。自分の事ながら、その事も興味深く、しばらくは熱が冷めそうもない。来週、甲子園の画廊で、「一部銅版画」の展覧会を開催します。詳しくは、スケジュールの頁をご覧下さい。2001・11・15(木)〜11・20(火)ギャラリー・アライ 0798−42−2263阪神・甲子園駅下車、北に徒歩1分。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 7 Oct 2001 20:00:25
【コラボレーションの相乗効果】
シン様、それは少し誉めすぎです。私のオブジェは、色もしっかり着いていますし、何と言ってもジュエリーよりは何十倍も、カサ高いのですから。坪さんの完璧にデザインされた彫金とのコラボレーションだからこそ、オブジェも引き立て役の任をまっとう出来たというものです。ともかく今回の「キラナ展」、私としては珍しくSHOPでの展示でしたが、働き者のスタッフに支えられ、好評の内に終了できまして、感謝申し上げます。ご高覧下さった皆様、ありがとうございました。「コラボレーション」という形態について、あまり経験の無い私の背中を押して下さったのは、商品展示(ディスプレイ)のプロの方でした。その企画に同意して下さった「キラナ」の担当者の方が、よく作品を理解して下さり、展示の際、潔くお店の備品を引いて下さった事にも感激致しました。画廊での展示にも同様の事が言えますが、適度に分量を「抑える」事が肝心だと痛感します。私も含めてキラナ・ファンが増えて、リピーターになるに違いありません。
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シン<@> 6 Oct 2001 18:35:14
「キラナ」での展示を拝見しました。とても素敵でジュエリーショップなのに余りにも似合っているのに驚きました。というより、ジュエリーが寺田さんの作品のパーツに見えて、お店として大丈夫かなと思うくらい寺田さんの作品はジュエリーを「食って」ましたね。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 17 Sep 2001 20:38:08
【キラナのきらめき】
大阪の地下鉄肥後橋駅?番出口を出て北に向うと朝日新聞社があり、道なりに堂島川を渡ると、向こう側にサントリーの看板が見える。そのサントリー本社ビルの1階にある小さなショップの一つが、KIRANA。名前にたがわず、小粒ながらキリリとした愛らしいお店。お店を任されている村田さんの説明では、ドイツの例えばフランクフルトの専門店のイメージで、デザインされたとか。常設展示としては、主に彫金作家の坪文子氏のジュエリーの世界が展開している。数多い彫金作家の中でも、坪氏のミニマルとも言えるシャープな作品には、とても惹かれるものがある。来月そのキラナで一周年記念特別展示企画が催されます。第一弾に私のオブジェが選ばれました。平面作品を含めて、約30点出品の予定です。10月1日(月)〜6日(土)まで。涼風が吹く頃、是非、お立ち寄り下さいませ。センスの良い展示もお楽しみに。キラナ:06−6341−255511:00AM 〜 19:00PM
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 28 Aug 2001 03:51:05
【不器用においておや】
私も、楽器を上手に操る人や良い声で歌う人に羨ましさを禁じ得ません。殺したいとは思いませんが。幼児期に、親に強制されたのが今でもトラウマとして残っています。では好きな音楽は何かと訊かれたら、超絶技巧や美声とは関係ないのも確かです。子供が無心に描いた絵や、所謂「ヘタウマ」的なものに惹かれるのは何故かしら。整った物より、少しバランスの崩れた物に「美」が宿る事がままあります。楽焼茶碗がもし型物の様だったら何の魅力も無いし、染付けが単なるプリントでは価値はありません。完璧なシンメトリーの構図や写真の様に精密な描き方に、一種息苦しさを感じるのは私だけではないでしょう。神ならぬ我々の眼は相当歪んで、独善的なのかもしれません。たとえ未熟でも不器用でも自分の眼(心)が感じた通り表現するしかありません。曲がっていても人の手で描いた一本の線は、その人そのものですから。特に頭ばかり使っている方に、手を使う事をおすすめします。夢中で「手仕事」をしていると、我を忘れる一瞬があります。何も考えずに手が勝手に動いているような、とても幸福な一瞬です。その場合、器用な善人より不器用な悪人の方が幸福なのは当然です。
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寺田祐一<yteradal@palette.plala.or.jp> 27 Aug 2001 17:44:58
もしかしたら、豆腐は食べるより作った方が面白いのかも知れません。角のピンとたった白い直方体が突然出現するとき、きっと厳粛な思いになるでしょうね。 飾っておきたい!ものは食べるより作るのがいい! しかし、ひとつ問題があります。版画を彫ると手を切り、何かを張ると歪み、線を引くと曲がる、色を塗るとはみ出し、細かい仕事はまったくできない不器用は、何から始めたらよいでしょうか(もっとも不得意は折り紙、ズルにはなっても鶴にならない)。何も芸術家と言わず、トメなどがきちんとおさまっていると、その辺の職人さんでも既に私の神様です。スッゲーなーって。プロじゃなくても、楽器を巧みにあやつる人を見ると殺したくなるほどです。背の高さ、容貌、学歴、育ちなど、まったく関係ない私の唯一のコンプレックスです。こんな天然記念物的な不器用に出来る美術は何かないでしょうか? 人は私の手を見て、なんと「亀の手」とからかいます。 こんなくだらないこと、眞理子さんのようなプロに大変失礼ですが、ぜひ何か作ってみたいのです。よい方法、知恵はないでしょうか。ちなみに、寒天やゼリーの型ぐらいは抜けそうなのですが‥‥ 、それもそんなに簡単じゃないのかな?
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 20 Aug 2001 12:22:10
【豆腐からの連想】
季刊「銀花」のファンでしたが、白井氏の名は、残念ながら存じませんでした。でも西洋贔屓のお方の好物がお豆腐とは、少し驚きました。そういう私もチーズが大好きで、最近St.ANDREという円柱形(!)のフランス産の銘柄を探しては買い込んでおります。考えて見れば、豆腐は最も身近なミニマルな形ですね。お皿に取る時、角がきちんと立って正式の姿になると嬉しいものです。寒天やゼリーも型を抜く時、えもいわれぬ喜びを感じます。子供の頃、氷を、凍った湖から切り出す作業が冬の日常的風物でした。あの、大きく切り取った氷塊は本当にいつまでも見ていたいほど、心奪われるものでした。子供心に、一種の浄化作用を感じていたのかも知れません。そう言えば、後年「氷点」と題した、原罪が主題の小説が世に出ました。同じく北国が背景にあっても、「阿寒に果つ」とは、対極的です。性善説、あるいは性悪説、どちらにしても人はそう簡単に割り切れません。お豆腐のようには、ね。ともあれ、豆腐からの連想が一服の清涼剤になりました。
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寺田祐一<yteradal@palette.plala.or.jp> 17 Aug 2001 19:17:24
眞理子さんの書き込みには、いつも眠っていた記憶が覚まされます。昔、白井晟一という建築家の「豆腐」(確か「銀花」という雑誌に掲載された思いましたが‥‥)という一文があったのを、記憶の底から思いおこしています。 和と洋の衝突を(融合やバランスではなく)一切の妥協なく追求した一匹狼の創作家(中央文庫の装丁なども手がけていた)でしたが、主にドイツ、ギリシャ・ローマからの石の重みを知っていたようでした。和の持つ繊細で軽やかさな粋が、彼の手にかかると不思議な重厚さを醸しだし、深い哲学的な空間を生み出していました。 かすかな記憶によると、豆腐は、食品として造られるものであるから、決して芸術作品ではない、その全存在を通して無駄を一切省いた「用の美」に徹している。その製造過程における清冽さ、にがりを投ずる一瞬の妙、現れ出る白いマッシブな姿は「かたち」そのものである、といった内容で、モデュロールのような作為的なスケールではなく、用そのものから決定される、最小限で気儘なモデュールを決定しているといったものでした(かなりいい加減な記憶ですが)。つまり日本的なるもの、ミニマルの原点。白井晟一は、十分に西洋に対抗し得ると考えたようです。眞理子さんのミニマルが、豆腐と一緒では申し訳ないでしょうか。しかし、安藤忠夫の建築の原点もどうやらその辺にありそうです。二本の箸で、巧みに切り取って食べる豆腐が大好きな私には、食の好みも相まってうなずける一文でした。勿論、白井晟一の域には遠く及びませんが。 ただ、眞理子さんの興味が(と言うよりフェチ?)金属の箱形にあることと、その原点がミニマルであることが分かり、映像を通してだけですが、私の何が興味を持たせたのか、少し解けた気がします。ずっと気になっていたのはスケール感とそのテクスチャーでしたが、やはり一度実際に見て、手で触ってみないといけないなと。 ちなみに、私の部屋は無意味なゴミとがらくたでいっぱいで、ブランド品ひとつなく、お恥ずかしい限りです。ですから文句を言えた義理ではありませんが、日本の町並みの不統一さと汚さには天下一品です。どうにかなるでしょうか。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 17 Aug 2001 11:30:11
【ミニマルなアートの心地よさ】
気が付くと部屋の中は、家具から小物に至るまで、円や長円に四角、球や円柱、四角柱や立方体等のオンパレードで、やはり私は所謂ミニマル志向なのだと分る。子供の頃はひたすら石ころや牛乳瓶の蓋を集め続けた。今でも特に、金属の箱型のような物には目がない程。ミニマル(最小限の要素による)アートを最初に見たのは、いつだったかしら。ホンピドーセンターで見た、ドナルド・ジャッドの作品群を思い出す。箱を積んだ形の好ましさ。あの無意味にも思える無表情がイイのだ。高輪の原美術館の中庭にさりげなく設置されていた、白い角材を組んだだけのソル・ルウィットの作品の美しさは、今から思うと私にとって決定的だった。安藤忠雄のミニマルなコンクリートの建築も、とても気になる。川久保レイのミニマルな服を着こなせたらと思う。最近、続けてミニマルアートを見る機会があった。「ジャッド」の版画を伊丹市立美術館で、「ミニマル・マキシマル」展を京都近代美術館で。ミニマルなモノを見た後は、街中の不必要な要素が気になって仕方がない。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 25 Jul 2001 20:27:31
【ラ・ガレリアのオブジェ群】
大阪の地下鉄心斎橋駅で下車して、心斎橋筋を南へ道沿いに少し行った東側にあるジャパンライフビル。そこの4階にあるのがご存知ラ・ガレリア。まるでオブジェ畑のように、種々の不思議な物体が所狭しと置かれている。面白すぎ、或いはティストが少し濃いめなのが大阪的とも言える。今回、奥の方の壁を細かく仕切り、月極めのリースという形に発展した。早速、1年間の契約をするアーチストもいて、これからの展開が楽しみである。特定の画廊で短期の個展をするより負担が少なく、不特定の厳しい消費者の目に晒される点でメリットが多いと思う。有名無名玉石混交の中から、「掘り出し物」を見つけ出す楽しみは格別です。アートファン必見の穴場。お問合せはラ・ガレリア、電話06−6213−3473まで。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 15 Jul 2001 11:42:37
【宮?豊治展の印象的な設置】
吹田市万博公園内の国立国際美術館で開催中の宮?豊治「眼下の庭」展。昨日、異常な暑さの中辿り着いた展覧会場は、若い方が結構入っていて驚いた。鉄の作品が点在する、親しみ易い設置の仕方が、つい触って見たくなる様な気にさせられ、権威主義的な冷たさは全く無い。「身辺モデル」のタイトルに連想される、木の葉や枝、石、そして本人を象徴するらしい小さい人体が脈絡無く現れ、まるで誰かの夢の中に入り込んだ様で、印象に残るのは、鉄の重さではなく「柔らかさと粘り」。「水墨画のような展示が理想。鉄でそのカスレ(!)を表現したい」というのが作家本人の言葉。会場を見渡して、なるほど「細部が全体を決定する」と納得。見えない部分をどう支持するか、余白つまり空気をどう統合するかを重要視する捕らえ方、これは、とても日本的。茶室に宇宙を感じるような。7月22日まで。水曜閉館。
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谷阪<kaze@fine.ocn.ne.jp> 5 Jul 2001 01:41:47
久しぶりです。 しばらく仕事で東京に行ってました。東京の青山周辺は大阪に比べて現代ア-トのギャラリ-が多くなっていました。 最近は肥後橋周辺のギャラリ-&バ-で集まりイベントをしています。 今度梅田のCLUB KARMAでダムタイプの山中透のユニットの関西ではめずらしいイベントがあります。URL http://position.jp 参考までに.またBBSにカキコさせてもらいます. よろしく.
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 24 Jun 2001 17:29:43
【図書館ギャラリー】
芦屋市立図書館・友の会からの依頼で、拙作「水蜜(すいみつ)」を貸し出す事になりました。9月末まで3ヶ月間、図書館の入り口近くのホールの壁を飾ります。震災後に出来たボランティアの方たちが、時々コンサートを主催しています。地域に根差した活動のお役に立てるとは、大変嬉しくもあります。お近くの方は、是非散歩のおついでにでも、伊勢町の市立図書館に足をお運び下さい。月曜閉館。
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福田十糸子<fukudatoshiko@hotmail.com> 21 Jun 2001 16:09:24
先日、楓ギャラリーを覗いた近所の福田です。大変居ごごちの良いひとときをすごさせていただきました、楽しかったです。画材に対する柔軟な姿勢は、そのまま寺田さんの作品に通じていますね。ところで、あのとき話しておられた、”にせサビ”の塗料、それらしきモノを心斎橋のカワチ画材で発見しました。1階の奥の、粘土の売場あたりです。興味がおありでしたら、問い合わせてみては?でも、やっぱりちょっとキケン物かもしれませんが・・・ではまた、どこかでお会いいたしましょう。
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寺田祐一<yteradal@palette.plala.or.jp> 15 Jun 2001 02:37:13
個展が盛況のようで、おめでとうございます。今回も、お伺いできないのが残念です。「雨が木々の緑を一層濃くする様に、適度の湿度は作品の色を深く、或いは見る目を優しくする効果があるのではないかとも思う。」様子から、秘色がテーマである作品のみずみずしさが感じられます。関西という風土には、あこがれながらも気後れも感じます(学生時代はよく奈良を徘徊したものですが‥‥ )。その中にうまくコンテキスタライゼイション(contextualization)しておられる眞理子さんがうらやましい。今、私はシアトルにいるのですが、それこそ雨とは切り離せない自然の美しい地域です。薄曇りと雨の合間に見せる晴れ間は、それこそ口では言い表せない美しさとすがすがしさです。違いはその自然のスケール感でしょうか。 通常の家でも50坪から100坪ぐらいはあり、ほとんどが白いプレーンなインテリアの中(時に荒削りの梁や柱がむき出しになっていたりする)、モダンアートや小物が実にセンス良く飾られています。このような場所で、眞理子さんの作品はどのようにうつるのでしょう。秘色、あるいは新しい融合かも知れません。ギャラリーとディスプレーから飛び出した眞理子さんの作品とお合い合いたい。 眞理子さんの個展、こちらで開かれる予定はないのでしょうか?
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 14 Jun 2001 22:24:47
【雨の画廊も良きかな】
既に楓ギャラリー展をご覧下さった方に感謝します。この画廊は、表の木戸から画廊の入り口までのアプローチが親しみ易い。ほんの少しのスロープを、どんな展示かと想像しながら入って行く、その一瞬は、まるで、日常から非日常への導入部のようだ。表に面したガラス戸と大きな窓を通して見える場所に、今回は色とりどりの卵の形のオブジェを横一列に並べてディスプレイ効果を狙ったので、沢山の方が何気なく扉を押してくれる。普通、画廊というものは相当敷居が高く、どう振舞えばイイかと悩む人も居るほど。その点この画廊は佇まいの懐かしさだけでも得をしている。雨の季節にしては、芳名帳を使い切るほど多くの方が見て下さって本当に嬉しい毎日です。雨が木々の緑を一層濃くする様に、適度の湿度は作品の色を深く、或いは見る目を優しくする効果があるのではないかとも思う。若い頃日本画に熱中したが、麻紙に引いた、たっぷり水気を含んだ絵具の美しさは格別だったのを思い出す。この国のあらゆる要素は、この水っぽさと切り離せない。最終日まであと3日、初めての方は画廊の庭もお楽しみ下さい。以上中間報告でした。
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シン<> 13 Jun 2001 11:51:18
楓ギャラリー展を拝見しました。やはり寺田さんの作品には広い空間が合うと感じました。大きな余白に整ったデザインは多分に他者を排除するような冷たいイメージ一辺倒になりがちですが、微妙な色使いが多彩な印象を与えていると思いました。そして気付くと、いつもそこに「デラシネ」君が・・・
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 2 Jun 2001 21:13:32
【秘色がテーマです】
楓ギャラリー展のご案内。大阪市内の谷町6丁目界隈は、幸いにも空襲を免れたと聞く。相撲言葉のタニマチは、この谷町辺りに相撲の贔屓筋が住んでいたから。最近はビルが林立しているが、少し路地に入ると平屋がオアシスの様に点在し、松屋町から東西に渡る、からぼり商店街をひやかすのも楽しい。粋な黒塀、見越しの楓、画廊とは思えぬ、しもた屋風の空間が気に入り、折に触れ通う内に、幸運にも個展を依頼されるようになりました。元は情報誌の走りの発信源でもあったという画廊主は、演劇から美術まで幅広く理解があり、前向きの姿勢が頼もしい。府立現美センターも近くに移転し、俄然谷町筋が活気ずく昨今、彼女の真摯な取り組み方と、地の利の良さで人気のスポットになりつつあります。今回の個展、あえて言えばテーマは、秘色(ひそく)です。モチーフをなるべくシンプルに絞ると、後の問題は色をどうするかです。この点に関しては、私は決して禁欲的ではありません。色というものは、単一よりも隣り合う色との兼ね合いで、思わぬ魅力を発揮する事があり、飽きずに制作が続けられる要因でもあります。秘色とは一般に、新緑の季節の風の色を表わすらしいのですが、萌黄色や露草の青紫、夏の先触れのような橙色など、なるほど風にも色を感じる此の頃です。楓ギャラリー:電話06−6761−03886月5日(火)から17日(日)まで。月曜日休廊。詳しくは、このH.P.のスケジュールの頁をご覧下さい。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 1 Jun 2001 21:26:24
【雨の日の本棚展というユニークな企画】
大阪の東に位置する、四条畷(しじょうなわて)市。JR東西線の接続で、京橋駅から四条畷駅まで15分と便利にはなったが、依然ひなびた情緒が残る土地柄である。ガレリア・ロッソは、四条畷神社の参道に続く道沿いにある風変わりな渋い赤(べんがら)色の扉が目印、それが画廊の名前の由来でもあります。オーナーは、向かいの池田屋さん。本業は良く分らないが、時代劇の背景になりそうな古い佇まいで、近くに、えにし庵という演劇空間も持っている。画廊の方は、専属の学芸員の小倉さんが企画を担当している。今回の企画は「雨の日の本棚」。本当に、雨に因んだ本を其処此処に飾り付け、私も含めて8人のアーチストの作品と組み合わせる予定とか。雨の日に、出かけて見るのも一興でしょう。私の出品作の題名は、優しい雨、トレモロ、雫、雨箱、雨上がり、等々。6月6日から17日まで。月曜日休廊。お問い合わせは、ガレリア・ロッソまで。072−879−3585
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寺田祐一<yteradal@palette.plala.or.jp> 29 May 2001 19:38:37
大変失礼いたしました。三人展は先週で終わっているのですね。実は以前から暇を見ながら書いていたものですから、つい失念してしまいました。三人展はいかがだったでしょうか? 密かに拝見したいと計画していたものですから、残念でした。 ついでに、ちょっと先を書かせていただきますと、芸術や文化に限らず、政治、思想、それこそイデオロギーにおいてこそ、長いキリスト教の歴史との戦いの中から生まれた近代、モダニズムとは、突然交通事故のように出会わざるを得なかった日本の近代とは事情がだいぶ違います。宗教改革によって開かれた近代(ルネッサンスそのもには、背景的力とはなっても、時代の扉を押し開く力はなかった。フマニズムを代表するエラスムスとルターを比較すると一目瞭然です)、やがてフランス革命による個の確立(徹底した反キリスト教、礼拝堂のマリア像は自由の女神に据え変えられた)、そしてイギリスで上がった蒸気の煙は、社会産業構造を根底から変えてしまいました(工場生産と現代的意味における都市化で、それまでの都市という概念とはまったく違うことを忘れてはならず、現代の都市計画、アーバンデザインはここが原点)。こうした恐るべき変化や大変動を正しく、気楽に受け止められる人間はいません。ヨーロッパの19世から20世紀初頭は、この大変動をいかに受け止め、新しい時代の基礎を築けるかにあったのです。それは勿論あらゆる面に及ぶ訳ですが、受け止めるには、驚くほどの天才と力(血と涙)を要したのです。フランス革命に始まった新しい時代の予感に胸が騒ぎ、ベートーベンは「英雄」を書きました。ユーゴーはその顛末を「レ・ミザラブル」で確かめたかったのです。 そして時代の創作者たちにとって、鉄とガラスとコンクリート! まさしくキリスト教的過去と決別する、天才たちのまったく新しい武器となったのです。装飾や意味性がはぎ取られ、機能やイデオロギーがそのままデザインとなっていく、実に恐るべき時代です。おそらく、もっともラディカルに押し進めていったのがロシア構成主義者たちだったでしょう。しかし、バウハウスやコルビジェといった時代の旗手たちは、驚くほどの真摯さと情熱によって芸術に成し遂げて行きました。晩年、コルビジェは、沖に泳ぎ出したまま戻らぬ人となったのですが、時代の殉教者という気分があったのでしょう。そうとしか考えられない働きです。彼の編集になる「My Work」という作品集がよくその気分を表しています。 日本のモダンアートであれポストモダンであれ、おそらくもう少し時間と戦いが必要なのかも知れません。もしかしたら、その先に桂も浮世絵も浮かび上がって来るような‥‥ 。横尾忠則の作品など、ちょっと心を惹くのですが‥‥ 、日本の伝統における正統になりうるのか、わかりません。頭に乗って長くなってしまいました。いい年をして恥ずかしいのですが、送って見ることにします。眞理子さんに期待しています。 次は「楓ギャラリー」での個展のようですが、いつからでしょうか?
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寺田祐一<yteradal@palette.plala.or.jp> 29 May 2001 11:47:21
美の系譜が、あるはい眞理子さんのいう先達、愛着のあるものが、西洋的なものとは別に、日本人の美意識の中に流れている。そして、そんな境界線を越えて融合共存、というより互いに引き立て合うところに現代美術はあるという眞理子さんの三人展。どんなものだろうと想像も膨み、行ってみたい!という衝動がわき上がります。 もとより、甲斐さんのお名前も仲辻さんも存知上げない、大変失礼な門外漢ですが、鉄とテキスタイルとコラージュ、和風の画廊に繰り広げられる調和と対立はどんな緊張感を醸し出しているのだろうかと、興味津々です。残念ながら関東以南、ほとんど馴染みのない私にとっては、距離的にも時間的にもおたずねするのは難しい。堺市・花みつ・南海電車・爽やかな風薫る季節などの単語がエキゾチックで、逆に郷愁を誘います。紛れもなく関西と関東における歴史と伝統、文化の違いで、日本的なものなのでしょう。関西にはあこがれを感じます。ちょうどローマとギリシャのように(ちょっと大袈裟かな)。 まさしくバウハウスとコルビジェに洗礼を受けた者にとっては(日本文化の骨格を理解しない滑稽な西洋礼賛者)、漆喰の壁とも、コンクリートの壁とも相性がよい美術作品とはどのようなものか、是非確かめてみたいものです。逃げる訳ではありませんが、そうした世界とは全く無縁(生活も職業も)な者がみても、やはり西洋の(キリスト教の)歴史の中から生まれてきたモダニズムやポストモダンはよく理解でき、作品の質も評価できるのですが、日本的なという言葉のついた現代美術には、どこか自信のなさや時代錯誤(遅れ)を感じ、物まね感が否めないのです(これは私の勉強不足によるもので、素人の意見としてお聞き流しください)。また、柳宋悦や浜田庄司などの民芸運動にも違和感を覚えます。勿論私が眞理子の作品に興味を覚えたのは、そうしたものとは違うと骨太(と言っても作品は繊細ですが)のものを感じたからです(多分、眞理子さんのスノビズムでしょうか)。偶然眞理子さんのHPにアクセスしなければ、こんなことを考えることもなっかたろうと、不思議さと同時に感謝する思いです。今、日本的なもの、私なりにも考えてみようかと‥‥ 。 突然おたずねすることもあるかも知れませんが‥‥ 、 是非、直接拝見したいものです。三人展がご盛況でありますように。
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さかもとなおや<@> 27 May 2001 10:59:53
お久しぶりです。というか、このページを訪れるのははじめてです。今日は宣伝です。私もひそかにHPを持っていたのですが、最近、身近な人達にも公開をはじめました。よろしければ立ち寄ってください。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/4875/
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 16 May 2001 20:57:12
【三者三様の個性を引き出した、レトロな空間】
鉄による造形の甲斐良夫、綿布に矩形(四角い形)を散らした仲辻妙子、そしてコラージュとオブジェの私の、三人展が始まった。住宅街にある和風の佇まいと、モダンな作品群との組み合わせは、想像を超えて上手く収まった。特に、この画廊での伝統的な作品の展示を見慣れた眼には、新鮮かと思う。何処の家にも、代々使っている家具やら、骨董品やら、愛着のあるモノが溢れているのが普通だが、それらと共存するのが、或いはお互いにいっそう引き立て合うのが、現代美術なのであります。そんな考え方のヒントを提示する展覧会になれば、嬉しく思います。戦後、西洋的な物を吸収しすぎて、相当混乱してしまった我々の美意識ですが、過剰に振れた部分を元に戻せば、意外にモダンな先達の仕事を発見する事が多いのです。例えば、「モダンな暮らし」といえば、バウハウスの運動やル・コルビジェの建築空間を連想しますが、実は我国には、その300年前に既に桂離宮が存在する事に気づく訳です。ガレやクリムトの平面的植物的デザインには、浮世絵の影響が顕著ですし、その様な視点は、我国の素晴らしい文化的骨格を、再認識させます。今回の三人の仕事も、脈々と流れる美の本流から遠くにいるはずは無いと自負する次第です。漆喰の壁とも、コンクリート(現代における漆喰)の壁とも相性が良いのは当然だと。ともあれ、爽やかな風薫る季節の展覧会を、是非ご覧下さい。堺市の、画廊「花みつ」で5月25日(金)まで。電話は0722・61・0160南海電車、浜寺公園駅下車1分、月曜休廊。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 11 May 2001 10:37:03 2001/05/11
【質感に対する感度の良さ、或いは拘泥】
三上さま。貴女の悩みよく分ります。テクスチャーとディテールにうるさいのは、この国の人の特徴でもあります。物を鑑賞する時、手でその感触を確かめたくなる性癖があります。とにかく細かい所が気になるのです。服などでも、これほど素材や縫製に拘る民族も珍しいのでは?遠目には色もカットも良く素晴らしいのに、手に取って見るとあまりの雑な仕上げにがっくりという経験をよく聞きますし。日常的に、丁寧な仕上げだとか、艶消し仕上げ等の言葉が使われます。緻密さを追いすぎて、小奇麗なだけの物も多い気がします。チマチマして大胆さに欠けるという否定的批評も、良く聞きます。あまりにも、材質や質感に対する感度が良すぎるせいかもしれません。絵においても、「描く内容」が画材の性格に相当影響されると言えるでしょう。例えば所謂日本画の場合、岩絵具という鉱物性のピグメントを薄く塗り重ねて色を出しますから、どうしても物の捕らえ方が平面的になりますし、修正不能という側面は工芸的でもあります。有るがままの印象を筆触で表わす、というような方法に向きません。膠(にかわ)という水性メディウムの扱いが非常に難しく、ある程度の技術がなければ、見られたものではありません。有元利夫は、中世のテンペラ画のようなモチーフを、油とオイルではなく岩絵具で魅力的に描き切りましたが、自分で天然岩を挽く程の懲り様だったとか。確か紙ではなく、キャンバスに描かれていたと思います。彼も、もしかしたら油絵具のテカリを嫌ったのかもしれませんね。技術が優れていれば、結果としてその「技術」を感じさせない良い例でしょう。油絵具と格闘している三上様。絵具の盛り上がりや筆の跡が、物質として迫って来る感じ、良く分ります。実は私の「コラージュ」の場合も、下手をすれば取って付けたような違和感を克服する為に苦労しています。ある程度作り上げた表面を、サンドペーパーで荒し、リセットする事も度々です。お互い、選んだ方法を自分の物にすべく、怠り無く努力するしかありません。行く手に、マンネリズムが待っているとしても。
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mikami_etsu<kapsel@rock.sannet.ne.jp> 10 May 2001 11:31:43
眞理子さんレスアリガトウゴザイマス!私のちっちゃな悩み相談室のお返事を拝見させて貰おうと何度かこちらに足を運んだんですけど、「ナイ!ナイ!ナイ!眞理子さん忙しいのかな???」なんて思ってたら、なんのその・・・。私が見つけられなかっただけでした・・・(笑)。版画オンリーだった私が油絵を描いて感じた事はやたらとコマかなテクスチャが、気ィ〜になって気になってっ!仕方なかった事です。版画をしている時は、製版の時に、刷毛の痕跡や指紋がついても、ある程度「意図したもの」と受け入れる事が出来たにも関わらず、油絵となると何故か受け入れられない・・・。版画は支持体に対して、インクや顔料などが薄く(?)ほぼ均一に定着しますが油絵は自分の握った筆によって自分の手加減次第で変化しますよねぇ。支持体に物質感が感じられて、自分の描いたイメージ(絵の中身?内容?)を観る前に作品となるオブジェクト(キャンバスであったり絵具であったり)自体を見てしまうんですよね。なんだか難しいやら興味深いやら・・・って感じです。眞理子さんの作品にはコラージュとかイロイロ・・・凄く物質的な印象をもたせる要素はたくさんアルはずなのに、何故かイメージを観る事が出来る!不思議でたまりませんわ。要するに私には間接的な表現方法が向いてるのかしらん???なんて、今は解釈してマス。私の油絵はまだ未完です。ペインティングオイル?ってのを少し使い過ぎたみたいで、表面がテカテカしているところがあって、もう少し乾燥を待ってテカテカを治すモノを塗ろうと思っています。ああ〜ハズカしっ!「テカテカを治すモノ」なんて・・・。マジで知らないんですよねぇ〜、油絵・・・。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 2 May 2001 14:27:27
【時代を俯瞰する面白さ?】
寺田祐一様。偶然ですが私の作業台の周辺の壁に、リートフェルトのカラフルなテーブルの絵葉書がピンで留めてあります。数年前の兵庫県立近代美術館「ディ・スティル展」の時のものです。展覧会場では例の有名な椅子が、時を超えた新しさを誇っていました。私もアール・ヌーボーからアール・デコに移行する時代の、実験的な作品や空間構成そしてそれを支える理論(装飾→様式)に興味があります。建築や美術におけるスタイルの変化には、近代的合理主義の「光」を感じます。その啓蒙の光を浴びせられて、神を存在せしめた「闇」を失ったとも言えますが。そう言えば、昨年「ART・INTO・LIFE1900→1945」展の会場に昭和初期に建てられた三岸好太郎のアトリエが再現されていましたね。バウハウスの影響大で、当然ブロイアーやローエの椅子が似合っていました。モダニズムの何たるかが、一目瞭然でした。壁にあった彼自身のシュールでロマンティックな、蝶や貝殻の絵との組み合わせには一種違和感が残りましたが、頭の中身が流行(他人に思想)に遅れるのは世の常です。C.G.の作品等に感度の悪い、私自身の「古さ」の事でもあります。労働運動(今は死語?)をしながら、家では暴君だった父の世代も然り。団塊の世代を性格づけた「孤立を恐れず連帯を求めた」精神も、今となっては単なる風俗だった気もして、その齟齬に気が滅入ります。私がベトナムに平和を!とデモ行進していた頃、一方ではリートフェルトに魅了される向きもあったのですね。まるでモザイクの様に時代というものは複雑で、余程大きく切りとらなければ読み取る事など出来ないでしょう。ともあれ、羨ましいほどの貴方の余裕と、大きい画面です。大きい画面では、風の気配まで再現されるとしたら、内心穏やかではありません。ちょっと話が脱線しました。
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寺田祐一<yteradal@palette.plala.or.jp> 1 May 2001 21:51:10
門外漢のつまらぬ書き込みなど、一笑に付されると覚悟しておりましたが、意外なご返事、大変うれしく思っております。つけ上がりつつ、見当はずれついでに、もう少し私の感じたことを記してみたくなりました(すいません)。 さて、画像のことですが、私が使っているディスプレーは、三菱の22インチというプロ用のものです。ほかのものに比べればかなり大きく鮮明に再現しているはずですが、それでも眞理子さん(寺田さんとお呼びすべきですが、同じ姓なので何となく気恥ずかしいので、失礼ですがこう呼ばせていただきます。それに私は53歳で、ちょっと年上です)の作品に漂っているに違いない肌理の細かさや時の移ろい(あるいは凍結?)のようなものを表すには十分ではないでしょう。私は、モネの絵にゆっくりと漂っている時間や風の流れが大好きです。しかし、どうしても気になれば本物を見に行くほかはない点、それでよいのでしょう。私は見たいと思ったのですから。 さて、眞理子さんの作品のほか、文章も読ませていただいたのですが、なかなか立派な文章であるのと同時に、博識であることとその正直さ?(青臭さと言うべきか)に驚きました。ものを作ることを通して、直にその指先から見えてくる世界でしょうか。大変好感がもてます。ただ、作品と違って多少構えておられるでしょうか(これは当然)。 カンデンスキーについては、アーツアンドクラフツにおけるドイツ工芸運動バウハウスとの関わりにおいて知りました。その優れて鋭敏な感性と鋭い表現(文章においても)、構成力には驚かされました。どういう関係、どういう影響力があったかは知りませんが、同時代のアール・ヌーボー、セセッションなどに接する機会となり、そのエネルギーと豊かさ、格調高さに魅了されたものです。グラスゴーのマッキントッシュなどはなんと言うべきか、建築家?家具デザイナー?そんな範疇では収まらない追求者であったと思います。椅子のみならず、喫茶店<ホワイトコッケード・レッドリヨン>のメニューデザインなど、どうすれば手にはいるのかと真剣に考えたほどです。 もう30年ほども前になるのですが、渋谷の西部デパートで、リートフェルト(オランダ、ディスティルの家具職人)の椅子、あのレッド・アンド・ブルーが、確か7万円ほどで売りにだされたことがありました。当時学生で貧乏だったのですが、大枚はたいて買ったことを懐かしく思い起こしています。今はないのですが、手元に詳細な図面があります(それ自体作品ですが)。いつか制作したいと夢見ています。 どうも長くなりそうなので、この辺で終わりますが、いつか、そうしたヨーロッパデザインにおけるキリスト教との関係についてお話ししてみたいなと‥‥ 。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 1 May 2001 11:06:52
【なるほど、カンデンスキー】
寺田祐一様におたずねします。「画像が小さい」事についてです。なるべく軽くする為に、例えば「WORKS−1」等で、まず一覧は小さく表示しています。そのあと個々の作品を拡大して見て頂ければと、思います。それでも、小さいなら問題ですね。なにしろノート型の小さいパソコンの画面で操作するので、大きい画面ではどのように見えるのかいつも不安です。さて、それはさておき、書き込みして頂きありがとうございます。美術関係の方ではないのに、カンデンスキーの名が出たりして、驚きました。先月、次回の展覧会(堺市浜寺公園の画廊花みつ・三人展)の案内状のデザインに頭を悩ませている時、会場のレトロな雰囲気に合わせて、白樺派やロシア・アバンギャルド的なものを思い浮かべていました。確かに、私はクレーやカンデンスキー、それからニコルソンやシュビッタースも好きです。コラージュについては、マン・レイも。とっくに卒業したつもりが、尻尾が残っていたのでしょうか。51歳で、確かに若くはないですが、まだ老いるには早いと思っています。
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寺田祐一<yteradal@palette.plala.or.jp> 30 Apr 2001 19:09:09
息子のホームページを探していて、偶然に開いてしまいました。美術や芸術にはまったく無縁な者ですから、何らかのコメントなどできるはずもないのですが、こんなことを一生懸命なさっておられる方がいらっしゃるのかと、その不思議な魅力に一言お手紙を差し上げたくなりました。具体的なプロファイルもなく、残念ながら作品の表示が小さいのではっきりしたことはわかりませんが(カンデンスキーなどを彷彿とさせてなつかしい)、たぶん少しお年の方ではないかと推察いたしました。作品の感性が古いのです(勿論悪いという意味ではありません)。コラージュという手法は、よくわかりませんが、30年ほど前のポストモダンの手法としてよく用いられていたような気がします。「世界を再構築するにはまず秩序の破壊が不可欠です。様々な素材の持つ記憶(ストーリー)を剥ぎ取った上で別の文脈(コンテクスト)を与える訳です。」なるほどコラージュという手法はもってこいなんでしょうね。何を目指して、いや、何を見ようとしてがんばっておられるのか、大変興味深いですね。是非、本物見たいし、欲しいなって思います。突然の、見当はずれで失礼な手紙、すいませんでした。がんばってください。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 23 Apr 2001 22:42:16
【山崎ランの柔らかい彫刻】
山崎ラン(伊丹市在住)が80歳で他界した。作品製作中の急死だった。ユニークな人形やユーモラスな絵を残した。今年に入ってから、神戸六甲アイランドのEAギャラリー主催の「仮面展」に一緒に参加し、ランさんの「白いお面」が一番シンプルで良かったと言うと素直に喜んだ。私はこの10年程のお付き合いだが、彼女の活躍の一番華やかだった1970年代には、沢山の人を動員して、「おらんきょうらん」なるパフォーマンスをした話が語り草になっている。TVの「イレブンPM」でも踊ったとか。一本筋の通った、反権威、反常識、反平凡の人でした。人形作家と呼ばれるのを嫌い、ソフト・スカルプチャーだと言っていた。つまり、「柔らかい彫刻」だ。頭も柔らかく、78歳からコンピューターを始めた。「YAMAZAKI RAN」という題で、京都の紫紅社から本も出した。最後まで元気一杯だった。天国でも面白い事をみつけて下さい。さようなら、ランさん。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 14 Apr 2001 17:19:49
【ミクストメディアという自由】
三上さま、書き込みありがとうございます。ポンと投げ込まれた石の様に波紋が広がりました。知人から「書き込みがありましたね」とメールがありました。油絵の作家で、片手間に版画をやり出したら、相乗効果で両方の作品の深みが、増した人を沢山知っています。貴女の様に、その逆(版画→油絵)は珍しいですね。でも、貴女の版画作品は、初めから油絵のようでした。版画なのに、どうしてあのネットリ感が出るのか、とても不思議でした。当然、油絵→版画だと思っておりました。油絵具の普遍的な魅力は、やはり何と言ってもあの濃厚な色の良さでしょう。岸田劉生も、佐伯祐三も、三岸節子も、油絵具以外は考えられない程の、相性の良さです。技法や画材との出会いは、恋愛によく似ています。早くに運命の出会いがある場合もあり、一生遍歴を重ねる人もいるからです。自分の表現に最適な方法は何かと考えた時、新しい媒体が次々出現する現代は、選択肢が多く自由な分、迷いも多くなるでしょう。私に関して言えば、ローテクの範囲でなら結構気が多い方です。水彩、インク、アクリル、岩絵具など親水性の画材が好みですが、クレヨンもパステルも、独特の良さがあり、収拾が付きません。腐食による線(エッチング)も捨てがたい魅力がありますし。詰まるところは、何を表現したいかが明確なら、何を媒体にしてもそれなりの成果は得られるという事でしょうか。未知の方法と悪戦苦闘している過程で、新しい自分を発見する喜びも、無きにしもあらずです。三上的油絵の世界を、是非拝見したいです。
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mikami_etsu<kapsel@rock.sannet.ne.jp> 12 Apr 2001 11:43:06
こんにちわぁ。初めておじゃまします!眞理子さんの日記を読んで、たまげてしまいましたっ!(笑)私には少し難しくって、ココにカキコミするのに、少し足踏みしましたが、思いきって!カキコんでみました。(笑)私は版画作品ばかり作ってきたんですけど、最近、油絵を描きました。美大を卒業しているにもかかわらず、私にとって油絵は3枚目です。何人かの方に見て頂いたんですけど、殆どの方の第一声は「版画みたい!」でした。今、私はあらためて自分の作品について考える機会と成りました。(って程、大袈裟なもんでもナイんですけどね!)造型作品?として表現する時、色々なプロセスがあることは、勿論、頭では判っていたんですけど、表現したい!と思う方向性によって画材やプロセスを選択する事を身体で感じたように思います。眞理子さんはこの点について、どんなスタンスをとったはるんですか?是非教えて下さい!
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 27 Mar 2001 14:27:06
【ジャッキ・パリーの編集の方法】
JACKI・PARRYという造形家を知る人は、まだ少ないと思う。1998年に岩手アートフェステバルに招待された、スコットランドで活躍のアーチスト(1941年オーストラリア生まれ)である。紙を素材とする彼女の作品は資料によれば、全て「編集の方法」という興味深い題名が付いている。多分、紙が歴史的に情報伝達の、或いは隠蔽の側面を内包するからだろう。紙は、我々にとって最も身近の素材でもあるが、捕らえ方が異なると、こうも結果が「思索的」になるのかと驚いた。紙を漉くのではなく、型(キャスト)を使っているらしい。特に立体作品は光が当たると、厚味のある半透明の魅力が増して惹きつけられる。大阪でこの作家を扱っているのはギャラリーほそかわ(06-6208-0012)。画廊の方の話では、あまり知られていないアーチストにも拘らず、作品の魅力で預かっていた作品は完売(!)した模様。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 17 Mar 2001 09:52:12
【躍動するリトル・ダンサー】昨今、歴史の教科書に関して、新たなストーリーに塗り変えようとする動きがあり要注意だが、事々左様に人間と言うものはどうしてもストーリーに惹かれてしまう動物であるらしい。例えば、演劇や映画の成功も、大部分はそのストーリーの魅力に拠るだろう。最近見た、80年代の英国の炭鉱町を舞台にした映画「リトル・ダンサー」も、よく練られたサクセスストーリーで、単なる子供映画を超えている。ダンスに対する熱意を際立たせるのは、炭鉱スト、保守的家族観、友情そして階級差と盛り沢山で、話の展開のスピードが心地よい。主役の少年役のJAMIE・BELLは正に適役で、「踊る魂」を体現している。何かに夢中になり、それが芯になって世界が輝きを帯びるその瞬間、世界が回り出すその躍動は、昔子供だった大人にも切なく響く。BRIAN・TUFANOのカメラワークが非凡で、特に海に続く切り通しを踊りながら駆け抜けるシーンは、何度でも見たい程。音楽も懐かしい曲ばかり。脚本は、LEE・HALL、原題は少年の名前から「ビリー・エリオット」。 監督は、これがデビューのSTEPHEN・DALDRY、41歳!
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 23 Feb 2001 19:41:24
【井上廣子の暖かな視線】
大阪府立現美センターで、井上廣子の「記憶・境界・不在」と題する展覧会を見た。オドロオドロしい展示を期待する向きには、拍子抜けするくらい真面目で整然とした印象かもしれない。大阪トリエンナーレで数年前初めて見た作品より、ずーっと整理されてその分軽味が増した。ドイツ滞在の経験は着実に作品に反映されている様にも思うが元々、ゲルマン的なのかもしれない。今回は、精神科病棟の患者の視線を感じさせる窓(写真)や、遺品(オブジェ)がモチーフなのだが決して突き放すのではなく、寄り添って包み込むような暖かい視線を感じる。人知れず、だが確かに存在した魂が、その存在を証され慰められるかの様だ。今後10年はドイツでも活動したいと張り切る彼女に、公的サポートの実現を願ってやまない。話が飛ぶが、ビオラ・ダ・ガンバの原型と言われる古楽器(ヴィオール)の仏人演奏家兼作曲家だった、サント・コロンブの言葉を思い起こした。ルイ14世の招聘を断った程、俗世の栄光に無関心の彼だが、「何の為音楽はあるのか」と問われて、こう答えたと言う。「言葉なき者たち、つまり全ての死者の魂を呼び起こす為」と。境界を意識しない人にとって、境界は存在しない。展示は3月2日(金)まで。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 18 Feb 2001 19:53:48
【コレクターと呼ばれる特権】
景気の悪い昨今、美術はビジネスにならないに違いありません。貸し画廊は別として、画廊経営は回転資金を考えただけでも大変そうです。そこをクリアしたとしても、事務の煩雑さや人間関係を想像するだけで腰が引けてしまいそうです。一方、ちょっとしたコレクターになら、と考える人は多いかもしれません。投機目的で有名なアーチストの物を求める人は別として、自分の「眼力」や「嗅覚」を頼りに、一般にはまだ価値を認められていない芸術作品を買い続ける行為には危険が付きまとうとしても、その満足度は高いのではないかしら。しがないサラリーマンにしか見えない人が、コレクターだと形容された途端、周辺の空気がそこはかとなく動く感じがするものです。コレクターといっても、これ見よがしに画廊に陣取り品定めをする図は興醒めで、願わくば作家と親しげにお話なんかもしないで、超然としていて欲しいものです。勿論、多少の駆け引きは善しとしても、あまり露骨なのはダメです。前回の書き込みに「見るだけの人」は敬遠されるのではとありましたが、それは違うと思います。人はまず見てから考えます。とにかく見なければ何も始まりません。どうしても手に入れたいその「一枚の絵」が、着ている服より読んでいる本より如実に、貴方自身を語るでしょう。それがコレクターの特権なのです。誰も一生「一枚の絵」も要らないと、固く決心している人もいないでしょうし。制作する側としては最後まで手放さなかった「一枚の絵」に選ばれたとしたら、それは本望というものです。それにしても現代美術は安いのね。
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Ryo<@> 13 Feb 2001 14:16:19
ギャラリーの運営については、さぞや難しい事だろうと想像します。もちろん高尚な理想も含めて始められるのでしょうが、ボランティアではない以上、どう収益を上げていくのかご苦労を察します。なぜなら私のように知人の作家や興味ある展覧会を「見るだけ」の人間はギャラリーにとって「無用の存在」ではないかと思うことがあるからです。モノを買わない客ばかりでは運営も続かないでしょう。アートをプロデュースしたい、色々なアートを世に示していきたいといった理念と、それで生活をする(多くの資産があり余暇で画廊をされるのは別ですが・・)ことの難しさは、実際ギャラリーを開いてらっしゃる方はどう感じていらっしゃるのでしょうか?
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 12 Feb 2001 19:55:20
【新しいギャラリーのご紹介】
福岡千香子さま、書き込みありがとうございます。堂々と実名なので、嬉しくなりました。先日の楓ギャラリー(大阪市谷町)のパーティでも、一番お元気でしたね。貴方が作る、ギャラリーH.O.T、今から楽しみです。アーチストの社会的使命について、もう少しお話したかったです。アーチストといえば聞えはよいですが、どんなイメージをお持ちですか?大なり小なり内向きのエネルギーに支配され、若干社会性に欠ける傾向が、一般的ではありますね。あのパーティでも、制作者一人一人のご紹介をしてるのに誰も聞いてくれず、飲んだり食べたりに夢中の情景は、見苦しくもありました。画廊での飲食は、雰囲気を一変しますし、考え物だと私自身は思います。パーティ嫌いの作家も結構多いです。大事な顧客にこそ、気を遣うべきでしょう。その意味で、一般の方が入りやすい画廊が出来ればと思います。大阪市北区西天満3‐6‐3西天満福岡ビル1Fに、4月に開廊予定のギャラリーH.O.T 皆様お楽しみに。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 10 Feb 2001 20:47:46
【高橋榮の爽快オブジェ】
写真家である高橋氏が50代半ばから手掛けた、面白いオブジェの世界を見た。「触覚の冒険」というタイトルで、伊丹市立工芸センターにて明日まで展示。素材が懐かしい物ばかりで組み立てられていて、何となく動物に見える。例えば、鉄製農機具の鋤のような物が尻尾で、頭が湯たんぽ、そして流木の足と言う具合。鉄の部分は程よく錆びが出て繋がりも自然で、不思議とあざとさから遠い。観念的すぎる彫刻が陥る弱々しさや、素っ気無さとも無縁。鍛えられた眼を持つプロの写真家の心には、意外にも原始の子供が息づいているらしい。強烈な力で、我が身の中にも、同種のものが棲息しているのに気づかされた。本館が工事中の為、臨時に隣の旧家を展示室にしつらえたのが却って効果的で黒々とした塊が、未知の生き物のように新鮮に見えた。天井からぶら下げた裸電球も、苦肉の策かもしれないが、シンプルで心和ます演出に思えた。
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福岡千香子<chikappa@oak.ocn.ne.jp> 8 Feb 2001 19:10:06
ホームページの充実さにいたく感動して拝見させて頂きました。制作する際の考え方で、アートの無い生活は、哲学の無い人生のようなもの。本当にそうだと思いました。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 31 Jan 2001 20:17:55
【何かしら拒絶的なこの掲示板】
どなたか存じませんが、勇気ある奇特な書き込み有難うございます。出来れば、もう少し長くコメントして下さいませ。「そして誰もいなくなった」状態ですので。小学校低学年の頃、転校を繰り返しておりましたが、クラスの誰もすぐには口を利いてくれず、子供心にも参った事を思い出します。現実の辛さは、いつも空想癖で克服しておりました。道や砂浜でいろいろな物を拾ったりする蒐集癖もそのころからで、これは今の仕事に繋がっています。振り返れば、良き時代でした。過度の競争も無く、豊かな自然がゆったりと時を刻んで巡りました。今となっては失った物の大きさに、呆然とするしかありませんが、空想する力を元手に、良き時代のエッセンスに形を与えていく事はできるでしょう。こんなあまりにも回顧的発想は、未来を拒絶してしまうでしょうか。
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シン<@> 31 Jan 2001 13:45:36
なんと、久しぶりに拝見させて頂いたら「2000」番!切り番報告です。なんか意味の無い書き込みですいません。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 28 Jan 2001 13:11:17
【書について思うこと】
魅力的な字を、時に見つけることがあると嬉しい。本の装丁や菓子折の包装、工芸品の箱書や街の看板にも目が止まる。私信を交わす友人の中でも「字が良い」人は、顔の良い人よりランクが上である。学習の結果というより、生来の造形感覚が為せる技なのかとも思う。ただ上手いだけの字は余韻が残らない。一般に絵描きは字が上手いが、絵のサインでさえ無い方がましと思う事もある。考えるほど字というものは、難しい。特に筆による字となると、慣れた人でなければ様にならないし、かといって修練を積んだお手本のように、上手く書かれたモノに心が動く事は無いのだから当然、書の展覧会は退屈。一方現代美術の分野で、既にあらゆる実験的な試みがなされてしまっていて、額なしで自立している作品も多い。そういうものを見慣れた目で書を見ると、多少表装の意匠に凝ったり、モダンな額形態に変えても、特に目を引かない。モノクロームの世界は格調が高く、伝統も長く独特の強みがあるのに、いわゆる美術の分野と一線を画しているので、狭い世界のままだ。書家には、美術家という意識が少なさ過ぎるのではないか。篠田桃紅や井上有一の書も、字を読まない外国人の目には、力強く緊張感のある造形であり、美術以外の何物でもないだろう。
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寺田眞理子<atelier-m@po1.dti2.ne.jp> 13 Jan 2001 11:16:41
【太田三郎展の切手三昧】
切手を題材にしたアートで話題の太田三郎展(西宮市大谷記念美術館)を見た。嶋本昭三の過激なメールアートとは又別の、静かな永遠性を感じさせる世界。切手の美しさを認める気持ちは分かるので、或いは時々もっと良いデザインの切手は発行されないものかと思うので、断然納得。8年位前、南森町(大阪市)にあったサイギャラリーで切手の中に種を挟んだ作品を初めて見たときの新鮮さが蘇る。同じ「種」でも河口龍夫の鉛との組み合わせによる重い作品とは又別の。切手も木の葉も天気図も、太田三郎の選ぶ対象には必ず、場所や日付が正確に刻印されていて、その几帳面さに宗教的なモノまで感じてしまう。特に圧巻は顧客番号を読み取れないほど小さくプリントした便箋を積み上げた、インスタレーション。この便箋は美しすぎて使えない。
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